無知が華

愚か者の綴

さて、なにを書こう。

記事を書こうにもなにを書けばいいのだろう。また、書くとしても9割方がリテラシーの伴わないもので、だからこそ、最悪なケースとして炎上になり得ることを知らず知らずのうちに書いてしまうかもしれない。それは面倒くさい。

や、以前の自分なら(当時の)汚い文章表現も相まって、それは十二分にありえたのかもしれない。でもいまは、少なくとも以前よりは善し悪しの分別がついてきたと思っているし、この思い込みは客観的に見ても間違いではないと感じるので、そうなると炎上についての心配は皆無かと言うとそうでもないのだろうけれど、まぁ、大丈夫かなと思っている。閲覧もほぼないし。

 

ところでここ最近はずっと長文を書いていない。代わりに短文のほうをTwitterで投稿している。

なので文章の書き方というか、「あら、長文ってどう書くんだっけ」という状態がずっと続いていて、でもそれを改善するのも面倒だからと今のいままで放置していた。

けどまぁ、別に文章を書く上でなにかしらの責任を抱えているわけでもないのだし、それこそ「タイトル:あ 本文:い」だけでもいいのであって、そう考えるとそもそも自分はなにを悩んでいるのだか、となるし、だったら以前のように好き勝手書いてそれを第三者に見てもらい刹那的で変態的な承認欲求を満たす、でもいいじゃあないか、と。

それになにより、いまもこうやって書いてて思うけど、やっぱり書くのって楽しいんですよね。自分が思っていることを書くという行為が純粋に楽しい。だから書く。お金や承認欲求という外側からの報酬、外発的モチベーションじゃあなくて、内的な、書いて表現することの楽しさ(内発的モチベーション)があるから続くし、結果的にやっててよかったと思える。

 

さて、何を書くかに戻るのだけれど、最後に、今現在の自分はぐーたらな生活を送っている。流れのない人生。刺激のない、知的好奇心をくすぐられない、そんな人生。ヒキニートな人生。いや、ヒキニートであるかは問題ではないか。問題があるとすればそれは、いま書いたように刺激のない、退屈な人生を歩んでいるということ。 ここ最近ずっとブログを更新できていないのもそれが理由。

さきほど「書くことが楽しい、だから書く」とは書いたが、さすがに外部環境も内在思考もほぼ流動性のない中で言葉を紡ぐ、というのはちょっと厳しいものがある。この凍結が数日なら未だしも数ヶ月~x年。想像力豊かでもなければ欠片の破片ほどの微々たる想像力すらないような自分にはやはり難しい。

じゃあどうすればいいか、となれば流動性を引き連れればいいとなる。ではそうするにはどうすればいいか、となれば早よ働けやヒキニート、となる。自分としてもひきこもるようになった今から10年前より群雄割拠の就職レース(アルバイト)に臨みたい意欲は満載なのだが、如何せんチキンであるがために、鶏皮の表面のような肌をした自分には難易度が高く、なかなか崖下を覗けないでいる。10年。

ただ、ここに来てようやく春が訪れようとしている。いま10年とは書いたが正確には9年と数ヶ月。そして鶏皮の表面のような肌改め尋常性座瘡がこの苦節約10年の果てにようやく、ようやくだいぶマシになってきたのだ。例えるなら以前は目も当てられなかったが今は目は当てられるようになった、そんなかんじ。

そして今月中、といっても残り4日ほどなのだが、このうちにハローワークへと赴くことを一昨日約束している。言うなればこの4日間というのは背水の陣。それも9年と数ヶ月の代償の上に成り立っているものだ。

故に千載一遇のこの可能性。なんとしても他者からの「汚物は消毒だー!!」目線をかい潜り、そしてこの可能性を掴み取り、10年目の節目という名の望まざる未来を迎える代わりとして人生の春を迎えてやろうと思う。春への片道切符はもう手に入れている。あとは乗車をすればいい。ただ、それだけだ。そして、流動性のある生に身を浸し、思考し、ブログという媒体に言葉を紡ぎ変態的な承認欲求を満たし続けるのだ。

 

さて、なにを書こう。